女性性男性性の融合〜真の自分がめざめる〜ネオタントリック瞑想スクールMEZAME

 

みなさん、お久しぶりです。

この8月は日本の終戦80周年。

この星ではまだ、紛争戦争が途絶えることなく、続いています。

そこで

エロスと女性性と平和 

の事を少し、書きたいと思いました。

私のネオタントラの師匠Ma Ananda Saritaは、常々

「これが広まれば、世界に戦争は必ずなくなる」と言っていました。

これ とは、何?

それは、

「うちなる至福=うちが満たされた深い瞑想の状態」

「赦しと愛と赦しの波動」

そして

「エロスと呼ばれる、生命の躍動にある美しさ、豊かさ、悦び」

の事。

彼女はまた、

「男性(男性性とも言い換えられる)が外で戦うための剣を置き鎧を脱いで、
女性(女性性とも言い換えられる)の待つ家に帰り、深く愛し合う事ができたなら、戦争する必要がなくなる」

「自分自身をクソ真面目に捉え、自分のエゴやプライドや権威が何よりも大事。
というあり方や価値観が、組織や社会全体に、戦いと対立のエネルギーを生む。」

と言いました。

そもそも、その「自分」なるもの、「主体」なるものは、本来は存在すらしないのに。

これはブッダの教えです。

「べき、絶対善、正義」イデオロギーも、また、分断を生みます。

その反対にあるのは、

遊び、戯れ、軽やかさ、楽しさ、柔らかさ、笑い、変幻自在。不真面目。

エロスというのは、それを全部持ったようなところが、あります。

上の画像は、このエネルギーを象徴するタントラの女神。

ディオニソス的な、陶酔のエネルギーで、人々を目覚めに導きます。

このような、つかみどころのないような、委ねたあり方は、権威に、構造に、恐れられます。

ある意味、女性性にあるこの性質。Shaktiと言われる、すべてを創る生命エネルギーにある、この性質。

目的や使命に固執しすぎるとき、エロスは、享楽にまみれた時間の浪費に、感じられます。

エロスの本質は、時間も空間も超え、今ここにある命の発露、そして命すらも超えた先を示してくれるもの。

色即是空の世界。生成しそして無に消え続けるアート。

昨日読んだ、手塚治虫の漫画に描かれていましたが

1940年代の戦時中の日本では、性的な関係や描写、エロスは、まさに非国民、絶対悪でした。

感じること、楽しむこと、悦ぶことは、犯罪でした。

生命のエネルギーは、すべて戦いと死に、向けられていました。

「護るべきもののために、命を捨てる」 

美しく聞こえる、この言葉、最近知り合いからも、よく聞かれるようになりました。

私チェタナは、個人的に今世、戦士のアーキタイプなので、最も純粋な価値観に命を捧げる感覚は、深いところに常に、あります。

ですが護るべきものとは、外なる戦争に現れるものではない。分離という虚構を護るのではない。

決して戦わないためのうちなる戦いが一番大事な戦い、

と、昔、私の空手の大師匠がおっしゃりました。

外に刃を向け、仮想敵を作る必要のないほど、うちが満たされた状態が平和なら、

その根底にあるのは、分離と分断を超えた、相対する性質の調和と統合です。

その平和を嫌い、飽きて、恐れているのは、私たちのうちなる何なのか?

硬さと柔らかさ、絶対と相対、禁欲と欲の肯定、二極の分離を超えていけるには、どうしたら良いのか?

なんだか抽象的になってきたけれど、不真面目そうに聞こえる、エロスという波動から、

うちなる、世界の調和、分離と分断からの融和へ、戻ってくるヒントが、たくさん、あるよ、

ということを、書きたかったのでした。

悦びを、遊びを、ゆるやかさを、今だからこそ、大事にしていきましょう。